昭和54年02月04日 朝の御理解



 御理解 第74節
 『かわいいと思う心が神心じゃ。』

 仏教で慈悲を説き、キリスト教は愛の心を説くと。金光教では、真・真心を説くというふうに言われますけれども、私は金光教の信心は神心を説くと、が一番適切だと思うですね。真とか真心、なるほどそれは中に入ってくるものであり、なら慈悲も愛もまた神心に入ってくるもんだとこう思うんです。大変な、いわゆる高度なものです。けれどもこれをまた神心と、可愛いと思う心というのは、昨日の御理解あたりから頂きますと、この神様は、「情念の神だ」というふうに申しましたですね。
 私共が、もう何か可笑しゅうて堪らん様な事があって、ご神前へ出ると神様も一緒に笑うて、釣り込まれて笑うて下さるような神様なんだ。私どもが泣きよりゃ、神様も一緒に泣いて下さるような神様なんだ。ですから、私はほんとに情念の神だと。そういう意味に、神心の中身内容としては、そういう心もあるということ。ね。例えば小さい子供でも、かわいらしいこと言うたら、可愛いと思うし。もうこんやつばっかりは、面見苦しいごたることばっかり言う、というのがあるでしょうが。ね。
 七つ頃から憎まれるという子供なんかは。かえって面憎い(つらにくい)ようなことを言う。ね。結局信心とは、その神様から面憎いと思われるのじゃなくて、可愛いと思うてもらえれるその情念を育てていくことだと、私は思うですね。例えば、いよいよ今日で修行が、寒修行が終わらして頂くわけでございますけれども、この寒修行には、終わった後は必ず、ここで茶粥食をみなさんに頂いてもらいます。ね。
 まぁ大坪家がその、まぁ食いつないだというか、おかげを頂いてきたというのは、あの遅配欠配の時に、この茶粥のおかげでおかげを頂いてきたというので、まぁそういう味わいを味合うてもらおうというので、あの茶粥食を寒修行の時には、始めたんですけれども。今は、私どもの方では、一週間に一遍ぐらいは茶粥を炊く。炊かんと寂しいぐらいに茶粥が美味しい。みんなが味わいが分かってきた。ね。ほんとに、あの時を忘れんために、せめて年に一回の寒修行のあとには、茶粥を頂いてと。ね。
 それこそある人は、それこそ薬を頂きごたるつもりで頂くという人もあるかもしれませんけれども。ね。やはりあの、そういうことが私は、神様の「可愛い氏子達だ」というふうに思い示すのじゃないでしょうか。ね。「あの時のことを忘れんために」と言った様な、そういう心使いが私は、神様に「可愛い氏子」という念を起こさせるのではなかろうか。また私共も、そういう親神様の思いを、まあ思ん計っての修行であるということであれば、その念情が通わないはずはないというふうに思うですね。
 昨日ある方が、御両親が熱心に信心されます。お会いしてみてもうほんとに、それこそ、いうならば聞くも涙、語るも涙と言った様なお届けがございました。そしてその方が言われますのに、「もし私に、信心がなかったら、もし両親がこの信心を私に教えておってくれなかったら、親先生、こういう時が親子心中でもする時じゃないでしょうか」と言うて、それこそホロッと涙を流されて、こっちまで身に詰まされたんですけれども。ほんとにその、親の信心がかくまでも有り難いことになっておる。
 私、先日から「親孝行」ということをね、「お道の信心の根本は親孝行だ」と言われるが、もし親がこのことを聞いたら、もうこれ以上の親孝行はなかろうと思うですね。「ほんとに親のおかげで」ということ。ね。又はほんとにこういう時に、いわば今世間でもういろいろと、新聞紙上を賑わす一家心中とか、いろいろなその、もう最近はとくにそれが激しいですね。一家中で心中をするとか。一家中を皆殺しにして、自分は逃げ回っておるとかと言う様なのがあります。ね。
 そういうのを見るにつけ聞くにつけ、「ほんとに、もし私共にこの信心がなかったら、親がこの信心を残しておってくれなかったら、こういう時が親子心中でも思い立っとる時じゃなかじゃろうか」という、そういう言うならばぎりぎりの時に、「神様、今までは、ただ両親が信心をするから有り難いとも思うし、たまには参るし、まぁおかげを頂いた時には有り難いなぁと思うし、でなかったら、そう信心の有り難いといったものは感じられなかったけれども、ね。
 いよいよこういう問題に直面すると、いよいよ今までのおかげ信心から」昨日は、「本当の、いうならば本当の信心をこのことを通して頂きたいと思います」と。ね。そういう心。私は、神様がホロッとしなさると思うです。神様の心の中にもそのまま入っていく。溶け込んでいくような。この事を通して神様の心が分かりたい。そして何を分かるかというと、なら神心を分からして頂くのです。ね。本当にこういう悲しい思いをさせてでも、本当のものを分からせたいという働きをそこに感ずるわけ。
 そのことをお取次ぎさして頂いとりましたらね、ここで頂きますが。それ御神米に私書き下げてあったんですけれども。「夕立の濡れて植木に水をまき」という。「夕立」もう今にも降りそうに真っ黒い雲が、ね、本当に雨になるかもしれないと言う様な事情であり、問題なんです。けれども、おかげで信心があったおかげで、そのいうならば雨も逃げ、夕立も逃げて、そして植木に水をやりよる。自分の心にいよいよ生き生きとして喜びの芽が出るように、御教えの水を心にかけて頂いたというのです。ね。
 信心の、いうならばある者とない者の違いをそこに感じますし、同時に私共は、そういう中から、ほんとに神様の思いを悟らしてもらい、分からしてもらい、ね、そしてそれを、いうなら神の心を心とする。私共の心とさせて頂いて、今度はまたそういう難儀な人達に、例えば巡り会ったり、そういう場を見た時にです、その心を持ってその神心を持って、人にもまた伝えて行けれると言う様なおかげを頂いたら、いよいよ難儀が難儀でなくて有り難いということになってくるんじゃないでしょうか。
 今日は私は神心というのはもう最高、高度なものである。もういうなら慈悲も愛の心も真も真心もその中に包含されておる。と言う程しに頂いておる神心と、今日聞いて頂いたのは、ね「この神様は情念の神だ」と。例えば可愛い事を言うただけでも可愛い、もうその神様がホロッとしなさる。私のばばが言うておりました。私がまだ四つ五つじゃなかったでしょうかね。「この人は、あんた、私が死んだら、私もお棺の中に入ってくると言うですけんね」と言うて、こうやって抱きしめよりました。うん。
 私はそんな、「ばあちゃんが死んだらどうするか」「俺どんもお棺の中に入って行くもん」ちこう、私がそう言う風な事言いよったんでしょう。それでばばが「この人は、私が死んだらお棺の中に入ってくるちゅうですけん」て言うてこうやって抱きしめる。ね。実際に入って行くはずがないですよ。けれども言うことだけでも、ほろりするようなことを言や、抱きしめずにはおれない。それがこの神様のお心の中には、そういう情念を持っておられる神様だということです。
   どうぞ。